火技之中興洋兵之開祖、その名は高島秋帆
18世紀後半、 西洋の列国は植民地の拡大を競っていた。清国との貿易関係で朝貢制度(貿易のために朝廷への貢ぎ物)の打破と厳しい貿易制度撤廃を名目に大英帝国は1840年に「アヘン戦争」を起こし、大国の清国はもろくもたった二年で屈服し結ばれた「不平等条約」で半植民地化となった。
大国清国のわずか二年での敗北という事実に日本は驚愕、しかもその矛先が次に向くのは我が国であると確信した。今の武器・装備では清国の二の前となるのは明白、どうする日本・・・・・そのとき時代の寵児は現れたのである。
其の一 西洋式新戦法の産声
風雲急を告げるアジア情勢・・・・処は長崎の出島、当時「出島出役の任」にあった高島秋帆はこの報を受けると「今までのサムライ戦法では西洋列国軍には勝てない」とその地位・役職からオランダ船より得られる世界情勢と軍事技術を元に高島流砲術を生み出し、老中・水野忠邦に軍備再編を唱える天保上申を提出した。幕府内部の賛否両論の末ついに天保上申は認可され高島流砲術の公開演練許可が下りたのである。その演練地が我が地である板橋宿だった。
其の二 奇異なる姿の百名兵
天保12年(1841年)5月9日、幕府の砲術場・鷹狩場であった徳丸ヶ原(現:板橋区高島平、もちろんこの地名の由来は高島秋帆調練地からつけられた)日本初となる西洋式砲術訓練は行われた。
指揮するは開祖の高島秋帆、息子の浅五郎もそれに加わる。演ずる兵は100名、内30名は長崎出身者、他は薩摩・水戸藩を始めとする全国から入門を熱望した若き藩士たちであった。
この日の銃士装備は燧石式(火打ち石で発火)ゲベール銃・肩掛けタイプの西洋胴乱・肩掛けタイプのスパイク式銃剣・天神差しの刀・筒袖上衣・たっつけ袴そしてトンキョ帽であった。特に特徴あるトンキョ帽の形状に幕府検分役の間で「異様之被冠物」と囁かれたという。
其の三 青年・勝海舟は見た!
幕府より検分役として砲術調練に訪れていたのは後藤周防守、吉川一学、本田伊勢守、酒井出雲守、稲葉兵部少輔、稲垣若狭守、加納遠江守、堀若狭守、加納大和守、太田新六郎、松平内匠頭、石河美濃守、松浦肥後守。幕府鉄砲方・井上左太夫、田付四郎兵衛、他に御徒目付・御小人付、諸組与力等の重臣が招集され新砲術を検証したが、今までの和流砲術との歴然たる差に愕然、その西洋式砲術の威力は検分役たちの度肝を抜き、幕府は即座に秋帆が持ち込んだ銃砲を採用するとともに砲台を江戸湾に作り西洋式大砲を備えたのである、それが現在のお台場である。
またその見学者の中には青年時代の勝海舟(18才)もいたのである。彼は剣術の師である島田虎之助とともに浅草より夜通し歩いて調練場に到着したというからその熱い思いが伝わってくる。そして目にしたのは強烈な火力、そしてなにより驚いたのは一糸乱れぬ兵たちの洋式軍事調練であった。・・・・その後海舟は秋帆の弟子である佐久間象山に弟子入りすることに。
日本で初めて行われた、西洋調練はこれだ!
徳丸ヶ原で当日行われたメニューをご紹介します。
★臼砲(モルチール砲)の実射操練(弾種:ボンベイ榴弾)
初 弾・・・・秋帆指揮により発射、約50m先に着弾
第二弾・・・・浅五郎指揮により発射、約45m先に着弾
第三弾・・・・秋帆指揮、約100m先に着弾
★臼砲(モルチール砲)の実射操練(弾種:ブランドコーゲル焼夷弾)
初 弾・・・・浅五郎指揮、約120メートル先に着弾
第二弾・・・・秋帆指揮、約100メートル先に着弾
★ホーウイッスル砲の実射操練(弾種:ガラナート柘榴弾)
初 弾・・・・浅五郎指揮、川辺に着弾 ※飛距離不明
第二弾・・・・秋帆指揮、約100メートル先に着弾
★ホーウイッスル砲の実射操練(弾種:ドロイフコーゲル葡萄弾)
一発のみ・・・・浅五郎指揮、 散弾効果により400~700mに散着
★乗馬にての小銃射撃操練
操練者・・・・近藤雄蔵
三丁のゲベール銃(鞍に二丁、手持ち一丁)を操作しそれぞれ三方へ射撃
★ゲベール銃による銃陣射撃
指揮・・・・秋帆・浅五郎
銃士79名による一斉射撃(弾幕射撃)
★大砲操練
3門の砲を使用、1門につき4人の門弟と4人の人足で実施
★行進訓練(銃士99名)
ゲベール銃に銃剣を着剣しての行進訓練等、小太鼓(ドラム)により歩調を取り指揮はオランダ語を使用