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 このコーナーでは会きっての旅好き野郎「伊賀副会長」が西洋流砲術・高島秋帆に関係する史跡等をご紹介します。

​ まず都内&近郊編からスタート!

 
 

 

 徳丸ヶ原の洋式調練公開に際し、本陣として5月7~9日に使用され、門弟ら100名と起居した場所です。
 使用のお礼として納められた高島秋帆の資料が今も残ると同時に、大砲・砲弾を模した紀功碑が聳え建ってます。

 ~案内板には 高島秋帆紀功碑~


 この紀功碑は別名火技中興洋兵開祖碑と呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で大正11年12月6日に建立された記念碑である。
 高島秋帆は、寛政10年長崎町年寄の名家生まれ、長じて出島オランダ人より西洋の砲術を学んだ。 天保11年、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術の清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆が、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環として西洋式軍事技術の導入を説いた。
 天保12年5月7日~9日までの3日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら、高島平・徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、讒言にあい永牢に繋がれた。
 嘉永6月夏、11年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し、幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応2年正月江戸小石川にて69歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。
 紀功碑は、安政4年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を碑心に火焔砲弾4発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高6メートル。

​記功碑

 

★松月院「松宝閣」
 松月院は高島秋帆の西洋流「徳丸が原砲術調練」に際し、関連が深い。中には「松宝閣」という松月院に伝わる「釈迦涅槃図」「十六羅漢図」をはじめ、開基千葉氏の遺品、徳川将軍御朱印状など徳川家や歴代の将軍に関する資料、松月院の歴史等々を展示した資料館があります。その建物の2階には、「高島 秋帆」の関連資料を展示した展示室もあり、秋帆が描かれている掛軸、徳丸が原の西洋流調練の模様が描かれた調練図 二点、ボンベン砲弾・棒火矢・ハンモルチールの砲身、書道や絵画に秀でていた先生の書画の掛軸数点が展示されています。その中でも、目を惹くのが秋帆先生の「愛用の脇差」です、松月院を調練に際し宿舎として使用させていただいたお礼として納められたモノです。眺めているだけで、秋帆を近くに感じることができるのです。
 松宝閣は、本堂を正面にし右後方の建物で、開館日は原則として土・日・祝日です。開館時間は午前10時~午後4時まで、一般500円 中学・高校生200円 小学生100円  ※団体はあらかじめご相談とご予約が必要。

​秋帆愛用の脇差

 

★石碑(紀功碑)には・・・・右写真

 此より北荒川に至る南北1千米突東西約2千米突の地域は古の所謂徳丸原なり
 此より北荒川に至る南北1千米突東西約2千米突の地域は古の所謂徳丸原なり

 天保12年5月 高島四郎太夫先生が幕府の命を承けて門人百餘人を指揮し始め

 て洋式の歩砲兵隊操練等を行ひ處とす

 

 大正11年 6月  高島秋帆先生紀功績碑建設首唱者

 

★案内板には 

 徳丸ヶ原 東京都旧跡(大正9年) 区登録記念物(昭和60年度)高島平・三園・新河岸一帯は、

江戸時代徳丸原とよばれ、台地寄りに水田がありましたが、荒川寄りには近在の村々の入会地と

して秣や肥料のための草刈場が広がっていました。
 当地は、当初幕府の鷹場でしたが、のちに鉄砲稽古場として大砲や鉄砲の稽古が行われるよう

になりました。天保12年(1841年)には、5月7日~9日の3日間にわたり、長崎の町年寄高島秋帆によって初めての西洋洋式砲術調練が行われました。
 秋帆は、弁天塚(現、新高島平駅)付近に陣を構え、門弟らに筒袖上衣に裁着袴、頭には黒塗円錐形のトンキョ帽と言う兵装束をさせて、砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣を行いました。この時の演習の様子は、区立郷土資料館で所蔵する「高島四郎太夫砲術稽古業見分之徳丸図」に描かれています。
 明治時代になると、徳丸ヶ原は民間に払い下げられ開墾が行われ、最終的には約4百ヘクタールの徳丸田んぼ、赤塚田んぼと呼ばれる一大水田地帯が出現しました。
 昭和40年代となると、東京周辺の住宅難の解消を目的に開発が行われ、高層団地や地下鉄の建設、住宅地の分譲が進められて現在の街が形成されました。 高島平の地名は、当地で砲術訓練を行なった高島秋帆にちなんで付けられたものです。 

 

                                                                     平成20年3月   板橋区教育委員会

 徳丸ヶ原調練の重要な地として忘れてはならない場所が「弁天塚」、この「弁天塚」は1841年の「徳丸ヶ原調練」において本陣が置かれた場所で、調練の中枢を担っていた場所です。「塚」は都営三田線の延伸工事と共になくなり、当時あった徳丸ヶ原調練の「紀功碑-(.1.徳丸ヶ原参照)」は、「徳丸ヶ原公園」に置かれています。

​高架下の「寿司屋」がピンポイントらしい

 

 板橋区赤塚の地にあり、高島秋帆の資料を始め、不定期に西洋流砲術に関する資料が公開されています(特別展や展示内容の変更がある時は公開されていない事もあるので予めご注意を)。おそらく関東では武器関連の所有は断トツの一番だと思います。それ系のフリークには超面白い資料館です。(近代武器展示では自衛隊土浦武器学校が一番多いでしょう)

 徳丸原、松月院など西洋流砲術の史跡を見る前には、是非、立ち寄り、少々知識を取入れては。ちょっと変わった散策ができるかも、その他、周辺に関する考古学資料や光学資料が展示されています。(2011年5月現在)  

 ※詳しくは、板橋区立郷土資料館のHPへ。

 

 徳丸原で日本最初の洋式砲術調練を公開し、幕府はもとより諸藩に衝撃を与え、新たある砲術の普及に取り組み出した束の間、当時の洋学嫌いの南町奉行鳥居耀蔵らの中傷により、1843年(天保13年)に獄に投じられ、その後許される1853年(嘉永6年)まで岡部藩預かりとなり、幽囚された地がこの「岡部藩陣屋跡」であす。
 岡部駅から深谷方面に徒歩約20分程度の場所にあり、国道17号線沿いには入口を示す案内石が建っています。岡部藩陣屋跡といわれても、今は畑になり、その一角に高島秋帆幽囚の地をあらわす石碑が建っているだけです。

 石碑は、高島秋帆先生が幽囚生活を過ごした部屋のあったと思われる場所に建ち、内容は【長崎の地において知りえた外夷の脅威と国防強兵の急務。オランダ人と接して新式兵器の用法、火器応用の兵制の必要性から兵法の創始に至る過程、徳丸原における洋式調練、普及に関する事、中傷に遭い追放され岡部藩安部虎之助のもとでの幽囚生活、弟子の江川英龍の奔走、赦されて講武所砲術師範役として多くの門生に教授した事・・・・昭和14年2月 陸軍中将 渡邊 金造】など、高島秋帆の功績を称賛し、この碑を建てる過程が記されています。                               

 

 都営三田線白山駅を下車し、国道17号方面に、その後、東京大学方面に国道17号線沿いを500mくらい進んだ、左手に八百屋お七事件で有名な「ほうろく地蔵」の大圓寺、赤い門が目に入る。中に入るとほうろく地蔵様が出迎えてくれます。それを左手奥に進むと墓所に入る門があり、「史跡 高島秋帆 墓」の案内が目に入り、更に門を潜り墓地を奥手へと進み行くと、墓地の一番奥の方に高島秋帆の墓に辿り着きます。
 御墓は、先の大戦時の空襲の影響により、無残にもキズ付けており、「高」の文字のみが確認できるのが印象と悲しさを誘います。
 1866年1月14日(新暦2月28日頃)、69歳で永い眠りについた秋帆の功績と偉大さを改めて感じる場所であり、西洋流火術鉄砲隊保存会としても更なる技術と知識の向上と演武の安全を祈念止まない場所でもあります。そして大圓寺の中には、高島秋帆の紀功碑を拝見することも(左写真)
 大圓寺近くには、高島秋帆が住んでいた所もあり、そこから講武所に通っていたと思うと・・・・やはり講武所跡に行って見たくなるものです。

 高島秋帆の御墓から小石川、春日を経て、水道橋駅に辿り着く。水道橋駅前より日本大学の図書館がある位置までが、講武所(2代目)のあった場所です。今は日本大学図書館の前に、それを物語る案内板があるのみですが。
 この講武所において、高島秋帆は「講武所砲術師範役」を勤め、武具奉行格として後進の指導と武備の充実に貢献しました。江戸復原図の右下に記載のある「板書調所」も砲術に関連のある施設で、大河ドラマ「花押」に登場し、幕末多くの洋式砲術の本が収められたり、日本に入ってきた文献の翻訳が行われたそうです。村田蔵六が活躍するシーンとして登場しました。

​記功碑

​秋帆の墓石

 
 

  高島秋帆の弟子として、江川英龍(江川太郎左衛門 ‘’号を坦庵‘’)がいる。主に韮山代官として静岡県伊豆の国市の韮山のイメージが強いですが都営大江戸線両国駅を降りて錦糸町方面へ250mくらいのところにある「江川太郎左衛門屋敷跡」。現在は公園として整備されています。又、すぐそばが津軽藩の屋敷であり、墨田の7不思議の一つ、太鼓にまつわる話などもあります。
 江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門は江川家の代々の当主の通称です。中でも有名だったのが、36代の英龍(1801~55)です。
 英龍は、洋学、とりわけ近代的な沿岸防備に強い関心を寄せました。わが国に西洋砲術を取り入れ、韮山に反射炉を築いて、江戸防備のための江戸湾内の数ヵ所に砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれています。
 この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、英龍は、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国捕鯨船に救われて、ほぼ10年ぶりに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語の講義をさせたといわれています。
 公園の屋敷跡案内板の後方には、「36代目江川英龍終焉の地」の鉄塔の案内がある。
 鉄碑には~江川太郎左衛門英龍終焉の地~と表され(碑の左側)英龍の江戸の役宅は、津軽藩上屋敷西のこのあたりにありました。英龍は米国から帰国したジョン万次郎を召し抱え、この地で英語や航海術の塾を開かせたりもしました。安政2年(1855)1月16日に、この地で55歳で生涯を閉じ、韮山の本立寺に葬られました。

 江川太郎左衛門英龍(号は坦庵)は、享和元年(1801)伊豆韮山に生まれ、父の後を継ぎ韮山代官となりました。幕末最先端の技術と学問を海防に生かし、高島流砲術の隆盛に努め、韮山では反射式溶鉱炉の築造、品川台場の建設などに業績を残しました。また日本で始めてパンを焼いたことでも有名です。

​墨田区の緑地公園なにっている

 

 港区海岸1-1。都営大江戸線大門駅でおり、JR浜松町駅脇を通り、高層ビル街に足を向けると江川氏調練場跡がある。
 高島秋帆より西洋流砲術の教授を受けた江川太郎左衛門英龍先生は芝新銀座に教場を設けて、西洋流砲術の更なる普及に努められ、英龍死後も息子の英敏にその遺志は受け継がれ、芝に大小砲の調練場が設けられたとの事です。
 その調練場跡地に行って見ても、今や高層ビルの駐車場に、調練場の名残を示すものは見受けられませんでした。
 唯一、それを示すのが地下鉄出口にある地図案内に書かれている文字、それが調練場跡の歴史を物語っています。

​現在の調練場跡

 

 高島秋帆から江川英龍先生に教授された西洋流砲術は、江川英龍先生から更に松代藩 佐久間象山にも教授され、佐久間象山の手で更なる普及とし、永代橋近くの真田信濃守下屋敷の一角に砲術塾が開かれ、、勝海舟をはじめ多くの諸藩の藩士たちへの教授が行われました。
 地下鉄門前仲町で降り、永代橋方面へ近くに越中島というこれまた砲術にひゆかりのある地を感じながら、永代1-14を目指します。この永代1-14は少々飛び地みたいなところにあり探すのに苦労しましたが、永代橋通りを素直に進んでいれば、見つけ易い所、「福島橋」の袂にありました。広さとしては、30×15m。今では案内板と少々のくつろげる場所があります。
 この地は佐久間象山が西洋流砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下に生まれ、名は啓、通称は修理、稚号は「ぞうざん」と称したといわれています。天保4年(1833)江戸に出て佐藤一斎に朱子学を学び、同13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じらました。おりしも、イギリス・清間で勃発したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋流砲術を学びました。
 嘉永3年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに、西洋流砲術を教え、このころ勝海舟も入門しました。
 同年12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・坂本竜馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。

塾跡地の「福島橋」です

 

 木挽町にあった「佐久間象山塾跡」を訪ねました。中央区銀座6丁目の電源開発株式会社の脇に跡を示す案内板があり、かつてこの地に塾があった事を物語っています。 江東区永代1-14付近に最初の塾を開き、いったん松代に帰藩し再び江戸に出て、塾を開いたのがこの地とのことです。 この地域には、江戸時代後期の思想家で信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。象山は初め儒学を修め、天保10年(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩江戸藩邸学問所頭取などを務めました。 後に海防問題に専念して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町5丁目(現在地域)に塾を開きました。嘉永6年改正絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画壁)と向かい合う場所に、「佐久間修理」(象山)の名が見受けられます。この塾は20坪程の規模で、常時30~40人くらいが学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本左内。河合継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本竜馬の名前も門人帳に確認することもできます。龍馬は嘉永6年江戸に最初の剣術修行に出て、その最中である12月1日に、象山に入門しました。 塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永7年に吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられて塾も閉鎖しました。

​銀座六丁目案内板付近です

 

 門前仲町で降りて、佐久間象山砲術塾跡を探していたら、目に留まった「調練橋」。幕末から明治にかけて調練場として広く調練が行なわれた場所であるこの越中島周辺一帯、それを後世に伝えるため、大正時代のこの石碑が建てられたそうです。石碑は橋の近くの公園の中にあります。

 

 鋳物の町 埼玉県川口市。川口駅を出て荒川方面に向かうと、荒川大橋の近所に「増幸産業株式会社」様があり、その正門のそばに、幕末の川口の鋳物師 増田安次郎氏が製作した「18ポンド 加農砲(復元品)」が飾られているのです。 復元品ですが、その説明文の中には、高島秋帆の文字を見ることができます。幕末の当時、鋳物師 増田安次郎氏と高島秋帆先生が協力して製作にあたり、当時作り上げた大型砲の復元品とのことです。 この大砲は、幕末の嘉永5年(1852年)に津軽藩より依頼を受けた増田安次郎(川口の鋳物師として名のあった当社代表の増田家初代)が、後の砲術奉行を勤めた高島秋帆と協力して作り上げたものの復元品で、当時は製作不可能とされていた大型砲です。嘉永5年から安政5年の5年間(1852~1857)に213門の大砲と41,323発の砲弾が製造され、諸外国から日本を守るために全国各地に配備されました。 大砲は、 全長3.5m 重量3トン 口径15センチ 射程距離 2500m 又、増田安次郎氏の作った大砲の一部は、長州藩の馬関戦争でも使用され、戦勝国のフランスに持ち帰られ、今、博物館で展示されているとのことです。 増幸産業株式会社様のご好意で大砲の見学のみならず、説明資料の配布も行われており、充実した見学ができます。 最後に 説明資料の中から高島秋帆から増田安次郎氏に送られたお褒めの言葉を紹介します。  ~ 「独自の大砲を開発し、 国家の干城である」~

展示されている​複製品の18ポンド加農砲

 

 高島秋帆の弟子で、江川太郎左衛門英龍よりも先に西洋流砲術の教授を受けた人物に、下曽根金三郎信敦がいます。その下曽根金三郎信敦が、1857年4月16日 府下鼠山において西洋流の大隊調練を行っています。その鼠山の大隊調練が行なわれた場所は現在の豊島区目白4丁目5番地、目白5丁目3番地、目白5丁目8番地に拡がっていた幕府の鷹場や砲術の調練場です。現在は閑静な住宅外で調練場があった痕跡は微塵も感じれません。ただ小高い山が、鼠山を思い浮かべ調練場があったことを感じれます。目白5-3の目白通りから内に300mくらい入った所に目白5-8の都の施設があり、それから目白駅方面に1キロ位進んだ目白4-5の森林公園で広さが体験できます。
 この鼠山はそもそも軍事の要所でもあり、戦国時代には太田道灌がこの地に攻め入る際に陣を構え、練馬城や豊島氏との戦いに臨んだそうです。
 安政4年に下曽根金三郎信敦が行った調練の模様は、東京大学資料編纂所が所蔵していて、その模様は【銃剣付の雷管式ゲベール銃で武装し、突カイ頭巾に、裁付袴、腰には脇指や肩からは西洋胴乱を提げている。総勢2796人。射撃体勢は「テウェーゲレーデレンヒュール」(2列打)によるもので、36人が12人ずつ三列に並び前列と中列が指揮の号令で発砲、後列は待機姿勢の形】だといいます、ぜひ拝見したいものですね。
 この他にも、目黒区の駒場周辺にも調練場があったようです。

 

 高島秋帆とオランダの関係は、オランダ式砲術をはじめ、出島等々深いものがあります。
長崎には、秋帆が活躍した出島がありますが、都内の神谷町の近くにはオランダ大使館があります。今回は、年間に数回、大使公邸が拝見できるとの情報により、秋帆気分を味わうべく内部見学させて頂きました。
 正門を入ってまず見えるのは、白色に映える大使公邸の建物。更に玄関に歩みを進めるとなんと玄関付近には火縄銃2丁と火薬入れが飾られているのに驚きます、秋帆との繋がりを感じ何だか嬉しい気分に包まれました。
  公開日は、多くの見学者が訪れて内部の素晴らしさに感動と歓声を上げています。応接室やダイニングルームなど煌びやかに思わずも見とれてしまう光景の連続です。
 また 当日は大使や夫人も見学者を大いに歓迎し、公邸の庭も見学でき、その広さと行き届いた手入れが目を瞠った。

 このような公開は春と秋にあるようなので、詳しくはオランダ大使館のホームページでご確認を。

 

 徳丸ヶ原の西洋式調練前には調練のリハーサルが行われていました。そのリハーサルが行われた場所は、地下鉄森下町で下車し、清澄通りを墨田区方面にすぐ、墨田区千歳3丁目付近にあった「対馬府中藩中屋敷」です。
 3丁目付近を歩いて見ましたが、現在は中屋敷があった事を示すものは見受けられず、予想してこの付近だと創造するしかないようだ、途中にある「弥勒寺橋跡」の案内板に「宗對馬守」の文字を見ることができ、更にはこの付近を流れていた五間掘や六間堀も埋め立てられているが公園や道路に整備されているので位置確認の参考に。
 徳丸ヶ原の調練に先駆けて、秋帆がリハーサルを行ったこの地も、陰に隠れているが徳丸ヶ原と並ぶ重要な地なのです。

​現在の様子

 

 都営大江戸線の駅名にもなっている「赤羽橋」。かつてこの橋の橋畔の近くには、徳丸ヶ原の洋式調練後、早々に高島秋帆からその技術を学び、免許皆伝を受けた「下曾根金三郎」の西洋流砲術の塾があった場所です。
 現在、その面影は見ることができませんが、江川太郎左衛門が開いた塾、芝新銭座の8.「江川氏調練場跡」同様、「修行者が堂に溢れる程盛んになった」(有馬成甫―「高島秋帆」)とあるとおり、数万人の門人が学んだとのことです。

 下曾根金三郎先生は、現在の板橋区西台や羽田等々数多くの洋式調練を実施し、中でも府下鼠山(現在の豊島区目白四・五丁目付近―13参照)で行われた「安政4年鼠山大調練図」や安政3年に行われた「駒場野調練図」はその調練光景を見ることができます。

​現在の様子

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